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広告のジャーナリズム化。

真実の強さ。

主に地中海沿岸に広く自生する多年草のアネモネ、中でも白いアネモネの花言葉が「真実」「期待」。白という色には混じりけがない、ウソがないということで「真実」を表現するのには適しているかもしれない。しかし自然界に完璧な白は存在しない。白という色は人間の目に見える光の全てを反射する物体から感じる色という概念で、物体に白の物は存在し得ないはずなのだが、実際には「純白の○○」といった表現をすることも多い。ここには「清らか」という意味が込められているようだ。ちなみにアネモネは品種改良も頻繁に行われ、国内では10数種、海外では数百種類も存在するという。「真実」は一つであってほしいものだが、人それぞれの思う真実があってもいいというのが多様であり現代的なのかもしれない。

一方、「真実」とは真逆の「フェイクニュース」という言葉を日常的に耳にするようになって久しい。その名の通り、事実と異なる情報がニュースメディアやソーシャルメディアを通じて流布されたものである。誤解から生じた誤報道というよりも、意図的に流される「偽ニュース」という表現が正しいだろう。あるいは、完璧な「偽ニュース」ではなくとも、都合よく切りとられていたり、誤解を生じるような表現が使われるものもある。最近ではAIを使った、合成動画を流す「ディープフェイク」も出回っている。以前はメディアで報道されるということ自体が、その情報への信頼性の担保になっていたわけだが、ソーシャルメディアの浸透・定着により、誰もが情報発信起点となれるようになった今、情報の真偽をしっかり見極めることは極めて困難だ。名前の知れたニュースメディアでさえ、その情報源に惑わされ誤報道してしまったり、あるいはそもそも発信した情報を曲解された形でソーシャルメディアを通じてシェアされてしまうということも多々発生している。昨今で言えば、コロナワクチンの効果や、都市のロックダウンの可能性、選挙における立候補者の悪評など、しばらくして「あれは誤情報だった」と知ることも少なくないはずだ。しかし、大抵はその情報に関心を持ち、周辺の人々とひとしきり話題にして語りまくった、あるいは何かしらの行動を起こした後にその真実を知り、いたたまれなくなり慌てて口をつぐむといった感じではなかろうか。そう、すでに情報は悪気なく拡散された後に。実際、総務省の調査によると、新型コロナウイルス感染症に関連したデマやフェイクニュースと呼ばれる間違った情報や誤解を招く情報について「見たり聞いたりした」と答えた人の割合は72.0%に上っており、若年層ほどその割合が高くなっている。

さらに個人同士のつながりにおいても、このようなフェイク情報というのはまん延している。新型コロナ発生以降に、ニュースでよく聞く「ロマンス詐欺」。マッチングアプリやソーシャルメディアなどを通じて一度も実際に顔を合わせたことのない相手とオンライン上で会話し関係を深め、その流れで多額のお金をだまし取られてしまうという事件が後を絶たない。2021年度の相談件数は新型コロナウイルス禍前の40倍に膨れ上がっているほか、海外でも被害は拡大し続け、米連邦取引委員会(FTC)のまとめによると、21年の米国でのロマンス詐欺の被害額は約5億4700万ドル(日本円で約740億円)で19年の2.7倍に上った。オーストラリアでも19年の約2倍となる約5600万豪ドル(同約50億円)の被害が報告されている。相手の口車に乗り、ということであろうが、買い物の購買代金の支払いであれ、生活者同士の売買サイトのやりとりであれ、相手は信用できる人として性善説で応対するのが当たり前になってきている現代で、よくよく起こり得る犯罪なのだろうとも納得するが、願わくばこういうネガティブな事件自体がフェイクニュースであることを祈りたいところだ。

また最近では生活者だけではなくあえてメディアを狙ったフェイクニュース発信なども発生している。例えば、衣料製造関連産業の労働環境改善を推進する国際NGO「クリーンクローズキャンペーン(Clean Close Campaign)」が活動家グループである「イエスメン(The Yes Men)」と共同し、アディダスから公式発信されたように見せかけたプレスリリースをメディアに配信、この偽情報をニュースとして掲載してしまったメディアもあったという。その内容は、アディダスがカンボジアの労働組合リーダーを共同CEOに任命・労働者へ適正な賃金を支払うようルール化する、カンボジアの労働者が半年ほど着用したユニフォームをアップサイクルしてコレクションとして販売するなどといったフェイクニュースである。企業が世の中に良いことを宣言したというニュースであれば、その真偽を確認するまでもなく、ついぞ「いいね!」とリアクションしてしまいそうだ。この騒動を経て、その後、アディダスは自社の労働環境改善への独自の取り組みやその賃金水準など、これまでの25年以上の対策をわざわざ説明することを強いられることとなった。もちろん、間違って掲載された記事は削除されたというが、企業にとってはこれ以上ない迷惑な話であり、せっかく生活者と新たな出会いができたとしてもネガティブイメージが先行してしまう。これに関してアディダスはまったくの被害者であるわけだが。

そういえば、最近見た人気ミステリアニメ「虚構推理」は、世の中に存在するもののけ(=怪異)の世界で起こるさまざまな事件を、主人公が妥当な推理で説明し怪異たちを納得させるというストーリーだ。ある登場人物のセリフに、「一度広まったうわさは、合理的な解釈が事実であったとしても、なかなか受け入れられない。うわさの方がもっともらしければ、少しくらい矛盾があっても、ウソが真実にとって変わることもある」というのがあったのだが、まさにソーシャルメディア上でのフェイクニュースの影響力を言い表しているなと感心した。物事の真実よりも、人への語りやすさや自分の納得感の方が上位に立ってしまうとなれば、真実の価値をいくら説こうが人の行動を修正することは難しいのかもしれない。

一方でその偽情報をしっかり否定していこうという動きもある。非営利組織として立ち上がった「日本ファクトチェックセンター(JFC)」はファクトチェック(事実の検証)を専門とする非営利組織だ。インターネット空間上の言論の健全性を維持、向上させることを目的に活動している。先のコロナワクチン効果への疑義や、世界的著名人に関するうわさまで、インターネット上の情報拡散で世論を惑わし混乱させるようなニュースに対しては独自にそれを検証し、正確なのか、不正確なのかを示してくれる。個人としても接した情報であまりに不安になるようなことがあれば、ここのサイトで気になるニュースの真偽を確認してみるのも精神的安定には有効だろうし、このサイトを見れば真実ではない情報を伝えることがいかに人を不幸にしているかが分かるだろう。

翻ってカンヌライオンズでもこのようなフェイクニュースの撲滅、あるいはこのギミックを使っていい意味での関心喚起を狙った事例が増えている。まさに「フェイクニュース」がどういうものかがある程度社会に認知されてきたからこそのキャンペーンとも言えるが、いくつか紹介していこう。

まずは米国のコロンビア大学ジャーナリズム大学院が発行するプロフェッショナル・ジャーナリスト向けの雑誌、「コロンビア・ジャーナリズム・レビュー(CJR)」が取り組んだ事例だ。

The Fake Newsstand

2016年、ドナルド・トランプ氏が米国大統領選挙を制したが、その要因として取り沙汰されたのがライバルであるヒラリー・クリントン氏に関する悪評を流布するフェイクニュースだったともいわれる。この混沌とした選挙の2年後の2018年、トランプ大統領の実績が問われる中間選挙を前に展開されたのがこの「The Fake Newsstand」だ。このタイミングでいま一度、正しい情報の重要性を説き、前回のようにうわさに惑わされた選挙戦とならないよう国民に呼びかけた。

そこで用意されたのが偽物のニューススタンド。米国でよく見かける新聞・雑誌などを販売する、日本のキオスクのようなスタンドだ。ここに「トランプ大統領、アメリカはカナダに独立を許すべきではなかったと主張」「幼児が殴り合いのけんか」「水道水に鎮痛剤の成分が混入」など、センセーショナルだがあり得ない見出しを冠したメディアが並べられる。よくよく見れば、全ての新聞・雑誌がオリジナルと似てはいるが異なり、このメディア自体が「フェイク」であることが分かるのだが、一見するとそのショッキングな見出しに目を疑うことに。ニュースを伝えるメディアへの信頼感とは裏腹に、伝えられた情報への疑義が交わり、人々の頭を混乱させる。そう、この体験を通じて情報への向き合い方をもう一度真摯(しんし)に考え直してみるべきではないかというメッセージとなっているのだ。

実際のところ、フェイクニュースに触れるのは個人であり、昨今ではオンライン上であることが多い。その真偽を一人のときにどこまで掘り下げて確認しようとするのか。しかしこのように物理的にリアルに並んでみれば、やはりウソっぽい情報というのは感覚的にも分かってくるものだ。そこでこのようにその問題をパブリックな場所でオープンにしてみせたのだろう。このために制作された新聞・雑誌のダミーは20種以上で、このニューススタンドで無料配布された。実は中身はフェイクニュースの見分け方が指南されているのだ。かように軽々と人はウソを信じ込んでしまうということ。このCJRの調査によれば、米国成人のうち約3割しかフェイクニュースを区別できないという。さらには検証されていないが、おもしろおかしく書かれている記事は本物のニュースよりもソーシャルメディアで拡散される率が7割も高いという調査結果もある。このキャンペーンは、メディア側にも自分たちが正しく公正で、信頼感を持たれる情報を人々に届ける責任があることを突きつけることとなった。現代において「真実」と出会うこと、そして見極めることがいかに難しいことかが提起された事例となっている。

ちなみにこのニューススタンドはたった1カ所に設定されただけだが、マンハッタンの42丁目と6番街の交差点という最も人通りの多い場所に置かれ、何十万人もの目に触れ、またPRによって各メディアで報道されたことで100カ国300以上のメディアで報道され、20億人にリーチしたという。情報起点の設計がしっかりしていれば、逆にこのソーシャルメディア全盛の時代にはあらゆる経路をたどり、情報は人々に行き届くこととなる。フェイクニュースがおはことする話題づくりを逆手にとり、狙った情報を拡散、自走させた良き事例といえよう。

「真実」は存在しながらも、時として見えづらく、それが故に見過ごされがちなことも多い。これに対し、しっかりと向き合い、その本質を捉え議論すべきところを「可視化」し、世の中に再提示していく動きも活発化している。 それが「The Lost Class」だ。

The Lost Class

米国では、銃による暴力が子どもや10代の若者の死因の上位を占めており、銃規制に対する支持は勢いを増している。しかし、全米ライフル協会(NRA)などの団体は、そういう勢力を大幅に上回る費用を投じ、対抗措置をとっているため政治の面からもなかなか進展が見えないのはご存じの通りだ。しかし現代的な問題に直面し、その「真実」に向き合えばおのずと自身がとるべき行動は定まるはず。ここでは見て見ぬふりをしてきたある真実を白日の下にさらすべく、取り組みが行われた。それは2021年の高校生のうち3044人が銃によって死亡し、卒業できなかったという事実を強烈な光景で見せつけること。この卒業できなかった生徒たちを「The Lost Class(失われたクラス)」と呼び、その卒業式に出席する生徒は誰一人いない疑似卒業式を開催したのだ。そしてそこに銃保有推進活動のリーダー層である元NRA会長や『More Guns, Less Crime(銃があれば犯罪は減る)』の著者を招き、卒業式でのスピーチをさせたのだ。彼らは本物の卒業式のリハーサルに出席しているつもりで、決して出席することのない生徒たちに向かってスピーチを始める。その異様で、皮肉な映像は記録され、即座に全国へ配信された。この映像はオンラインやニュースで広く共有され、人々をオンラインサイトにも誘導し、「失われたクラス」の実情と米国における銃暴力に関するより詳細な情報を提示、最後に銃規制に賛同する請願書の署名に導き、最終的には4万の署名を獲得した。併せて数多くの報道を起点に、ソーシャルメディアを含めて14億のインプレッションを達成、この活動を主導した団体「Change the Ref」への言及は2週間で21倍強を記録している。ちなみに、この「Change the Ref」の代表であるマヌエル・オリバー(Manuel Oliver)氏も17歳の息子を銃乱射事件で失っている。

このキャンペーンで秀逸なのはその可視化の方法。3044脚の空の白い椅子が青空の下、緑の草原に規律正しく並んでおり、それはさながら墓標のようにも見える。これだけの生徒が1年のうちに銃に関連した事件で命を落としているのか、という事実を目の当たりにした衝撃は言い表せないはずだ。そしてそのむなしい会場を前に喜々としてスピーチする銃携帯の推進派。この対比はメディアが得意とする風刺画のリアリティ版に見え、その皮肉さが助長されていた。数値だけではなかなかその規模感がイメージしづらいこともあるだろうが、こうした見せ方の工夫で急にイメージしやすくなることも多く、ソーシャルメディアといった情報拡散のルートが確立したいま、こうした「可視化」はますます強力な手段となっていくことだろう。

同じく「可視化」の秀逸な事例を紹介したい。中東・北アフリカ地域の公共の場で女性が自由に水泳を楽しめる機会が増えるようにとアディダスが仕掛けた「Liquid Billboard」だ。

Liquid Billboard

実は世界の女性の32%が人前で泳ぐことに抵抗があるという。そして中東においてはその数値は88%に急騰する。水泳、あるいは人前で水着になるということが当たり前とされてこなかった社会で、女性はスポーツ、あるいは趣味としての水泳を伸び伸びと楽しむことができないのだ。一般的に「水」は自由というイメージを持つ。しかしこれらの地域では多くの場合、文化的な側面、あるいは自身の身体への自信のなさから障壁や制約を感じてしまうという。

アディダスは体型や民族、能力、宗教に関係なく使用してもらえる新たなインクルーシブなスイムウェアを浸透させるべく、女性に自由に泳いでもらえるよう高さ5メートル、深さ3メートルの大型のビルボード型のプールを海岸に設置、11500ガロンの水をため、自由に泳げるプールとして公開した。ここには特殊な水中カメラが設置され、使用した全ての女性の体験をアディダスのオリジナルポスターに変換、ドバイモールの市内最大のデジタルディスプレイでライブストリーミング配信した。水着で自由闊達(かったつ)に行動する被写体はこれまでアスリートやモデルが中心であったが、自分と同様の立場でその姿を誇らしげにさらす女性たちを数多くの人が目にしたわけだ。これまで漠として持っていた忌避感を一気に払拭する瞬間だったに違いない。

海岸に設定された巨大水槽でアクティブに楽しむ女性の姿が世界最大級のドバイモールのデジタルディスプレイに映し出されるという快挙、これもダイナミックな「可視化」のアイデアとしていろいろ活用できそうだ。それぞれの女性がそのような行動を根底では望んでいたという「真実」もまたここで顕在化され、共有されたことも大きい。一人では言い出せないことも仲間がいればその意見が塊となり社会を動かしていく。そういううねりを創り出す一つのきっかけを提供した施策と言える。またメーカー側からの一方的な押しつけメッセージでなく、ターゲットとする生活者と共にそのメッセージを具現化していくというスタンス、生活者側の一人一人がどう受け止め、どう感じたか、すなわち情報の受け手がナラティブを紡いでいくというPR的発想にもしっかり根付いた施策がニクイ。60カ国超で3億5000万人へのリーチ、ソーシャルメディアで17.7%のエンゲージメントを達成している。

それでは最後に埋もれていた「真実」の顕在化の仕方として、クリエイティブ的な面から気になる2例を紹介したい。一つ目が、ニューヨークに本社を置く世界最大の出版社であるペンギン・ランダムハウスの「PORTUGUESE (RE)CONSTITUTION」だ。同出版社はアメリカに本社を置くグローバル企業ではあるが、ポルトガルにおいてはポルトガルの影響力ある作家を中心に扱っている。しかし、地域に根ざした存在としての認識は低かった。なにかポルトガル文化に対する知識と愛情を強く示せるプロジェクトがないかを模索していた折に発行にチャレンジしたのが「PORTUGUESE (RE)CONSTITUTION」だ。

Portuguese (Re)Constitution

1974年に起こったカーネーション革命は、ポルトガルが48年間に及ぶ独裁政治を無血革命によって倒したもので、革命を喜んだ市民たちが革命軍兵士にカーネーションを渡し、彼らがそれを銃口に挿したことから、このように呼ばれている。この本は何千人もの人々を拷問、殺害したファシスト独裁政権の下で40年以上暮らしていたポルトガル人と、厳しい検閲に遭ってきた芸術家たちを思い返しつつ、現在の自由な世界をたたえようというもの。モチーフに選ばれたのが、芸術家の検閲に使われた「青鉛筆」で、それは弾圧のシンボルとして全体を通じた重要な役割を担っている。

カーネーション革命の50周年記念として企画されたこの本は、現代アーティスト11人がその青鉛筆を使い、黒塗り詩(ある既存の文章から余分な言葉を黒塗りし、必要な言葉だけを浮かび上がらせて作った詩)の手法でそのファシスト憲法という歴史的文書から抽出・創作した詩と、使わない残りの言葉の部分を「青鉛筆」でマスキングしながら描いたイラスト58点の掛け合わせで作られている。抑圧の象徴となる書物がこれにより自由を謳歌する芸術のためのマニフェストに生まれ変わるというわけだ。ちなみにキャンペーン名のReconstitutionとは出版用語で、「再校正」という意味である。各イラストレーターは、詩人によって選ばれた言葉が残ったページを受け取り、残りのスペースを使って青鉛筆でオリジナルのイラストを描いていった。詩人たちが文章から一つ一つ言葉を選び出し、新たな詩として完成させるのに6カ月、イラストレーターがそれらの言葉を残し、他のスペースをイラストで塗りつぶすのに6カ月、合計1年がかりの作業となったという。2500部発行されたこの書籍は大手書店チェーンで販売され、たちまちベストセラーとなるとともに、現在ではかつての政治犯刑務所にあるアルジューベ博物館の永久収蔵品となり、またポルトガルの学校でも芸術を通して革命の歴史を伝えるために使用されている。

もう一つの「Blacked Out History」は、先の事例に似ているようで別の表現方法なのがオモシロい。日本の政治ニュースでも見たような、ほぼ全面「黒塗り(=Blacked Out)の書類」が登場する。

Blacked Out History

黒人のカナダ人は、400年以上にわたりカナダの歴史に重要な貢献をしてきたはずだが、実は彼らの物語は教育カリキュラムにはほとんど含まれていないという。その存在は当たり前に覆い隠され、黒人の存在をなかったものとして扱っているのだ。そしてそれは、いま存在している黒人系カナダ人の存在さえも否定することになる。このアイデンティティの存亡が掛かる問題にもかかわらず、カナダ・オンタリオ州の教育者はまるでこれに関知しない状況だった。そこでトロントに本拠を置き、黒人の歴史と遺産の保存と促進に専念するオンタリオ州黒人歴史協会(Ontario Black History Society)はオンタリオ州の教育政策立案者に対し、黒人に関する歴史教育の欠如を憂慮すべき問題として認識させるための手段を探った。

事前調査によると、現在の8年生(日本でいう中学1年生)の歴史の教科書には全255ページのうち、わずか13ページ分しか黒人の話が載っていないことが判明。その歴史や営みは、いわば「黒塗り」されているのと同様であった。そこでこの歴史カリキュラムがいかにゆがんで伝えられているかを極めて分かりやすく、視覚的に示す方法として、黒人に関わる部分以外を「黒塗り」にしてその格差を表現したのだ。それは教科書のほとんどのページを塗り尽くし、まるで役に立たないものとなった。これにより、この問題は否定できないほど明白で衝撃的なものとして一気に理解されたわけだ。この事実は「#BlackedOutHistory」というハッシュタグを伴い、全国に広まり、単なる教科書の問題ではなく、歴史の「真実」を覆い隠してきた社会的環境の問題、それを放置してきた関係者の問題などに踏み込む大きなムーブメントに拡張していった。

さらに注目すべきなのはオンタリオ州黒人歴史協会が、目指すべき成果に向けて、誰をターゲットに、何をすれば既存のシステムが変わるのかをしっかりと分析し戦略を立てていることだ。同協会は行動に先んじて、政府関係者に直接ヒアリングをし、国会ではどのようなステップで既存ルールが変更されるのか、またそのきっかけとするため何が政策立案者の関心を引くのかを確認している。その結果として彼らがとった行動が三つで、① 政策立案者に行動を起こさせるためのメディア、有権者、政敵、活動家グループといったインフルエンサーの輪を特定②カナダ国民がすでに情熱を注いでいる問題(=平等)との関係性を明示③共有しやすいメッセージを発信し、どのグループも素早く効果的に取り上げることができるものとすること――を基礎的戦略として設定している。そして彼らは例の「黒塗り」の教科書をトップ・メディア、教育者、活動家グループ、野党議員、そして最終ターゲットである教育大臣やジャスティン・トルドー首相に至る有力政治家に向け個別の手紙と共に突きつけたのだ。その後、設定されたハッシュタグ「#BlackedOutHistory」は拡散され、キャンペーン支援ビデオを通じてこの問題に触れた生活者も、その衝撃的なビジュアルを通じて共感を寄せた。また各ニュースメディアでも取り上げられ、オンラインでは560万インプレッションを獲得、また90%の肯定的なセンチメントスコアを記録した。オンタリオ州内の教育関係者や教員組合は、Blacked Outの教科書を自ら求め、生徒たちに偏見について教えるために使用、教科書の発行企業も自社方針と教科書の執筆プロセスを見直し始めた。そして最も重要なのは、政策立案者が注目し、MPP(州議会議員)が黒塗り教科書を持ちポーズをとる写真をソーシャルメディアで公開し、MPPのジル・アンドリュースはその教科書を手に議会でこの件に関するスピーチを行った。現在、野党が教育カリキュラムの変更についての働きかけを始めているという。

コミュニケーション的に学びたいのはその成果設定。もはや一時的な話題化で生活者や社会の意識を少しだけ前向きに変えたところで、それは瞬間的なムーブメントとして終わってしまう時代だ。それほどに人目を引く情報というのは氾濫している。冒頭で紹介したフェイクニュースもその情報氾濫の一翼を担っているわけだ。なにか糸口となる起点を見いだせたのなら、いかに最終的な成果へ導いていくかをコミュニケーションのKPI/KGI設計として活動初期に明らかにしておくべきであり、話題化で終わらせないよう常に心掛けることが重要だ。得てして話題化に満足してしまい、次の手につなげていないケースは多い。さらにそのタイミングを逸しては、同様の活動をしたとしてももはや社会の関心は付いてこないこととなる。情報は鮮度も大事なのだ。一方で、既存のルールや制度を変えようと思うととても大掛かりで途方もないことにも思えるかもしれない。その目標に「制度を変える、ルールを変える」を掲げるなどおこがましいと思うこともあろうが、数万人の署名を含んだ嘆願書が獲得できれば議会で取り上げられ、その是非についてしっかりと議論されるきっかけに十分なり得る。さらにその数が多ければ、それは国民の意見としてくみ取らねば政治家も足下が危うくなるわけで、その辺りの攻め方のステップがしっかり組み立てられ、実行されていることはPRでいうところのパブリック・アフェアーズ活動が根底に取り入れられていることを感じる。

「真実」は一つ。常に存在し、人々の行動の明らかな指標となっているかといえば、そうではないことが多々あることがここまででも分かる。さらにいえば、それぞれの立場によってその「真実」は形を変え、また時の流れによって姿を現したり、くらましたりもする。しかし日々を生きるために何かしらの道標が欲しいとすれば、なにが真実なのかを追い求める姿勢が無駄になることはないはず。それぞれが考え、議論し、少しでも重なる部分があればそこを糸口に重なりを増やしていけばいい。避けなければいけないのは、諦め、回避し、放置することだろう。「真実」を模索し提示する意思や行動こそが新しい出会いの原動力になるのは間違いなく、またそれは強力なはずだ。

一方で、これまでコミュニケーションの良き事例を選び、紹介してきているが、「真実」を追い求めるが故に余分なところを掘り起こし、無駄な論争を引き起こしているケースもあるように感じる。真実の追求は大切だが、著名人のゴシップを取り沙汰するように、火のないところに煙を立てる行為で騒ぎ立てるのはどうなのだろう。それは捉え方によってはジャーナリズム的な姿勢と言えなくもないのかもしれない。企業がそのパーパスを掲げ、社会を良き方向へ導くべく、その社会課題の領域にフォーカスした活動をすることは良いことだが、話題化を狙うあまりに社会に過度に論争を仕掛ける形になってしまってはいいけないだろう。あるいは昨今、社会から強くブランド・アクティビズムを求められた企業が、なにかしらの取り組みに着手しようと努力するときに、その初手を捉えて、その未熟さや過去の失敗を取り上げ糾弾するのも、せっかくの良き行動の始まりを阻害することにもなりかねず良くないことだ。あくまで世の中全体をより良き方向へ導いていくことを北極星としつつ、あまり急がず、過激にならず、目的のためだけに独り善がりになることで、関係する人々を置いてけぼりにしないよう配慮することが望まれる。

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We interviewed over 100 nonprofits,

and found that communication barriers are hindering new connections.